- チャイコフスキーの生涯と人生、生い立ちについて徹底解説!
- チャイコフスキーを一言でいうと、「ガラスの心を持った人」
- 神経質で繊細なチャイコフスキーだからこそ、心を打つ名曲が生まれた
- 精神的に病んで、ダウンすることもしばしばだったんだけれども。
今度チャイ5弾くんだけど、チャイコフスキーってどんな人だったんだろう?
この記事では、こんなお悩みにお答えします
- この記事の著者
Twitter(@messi_agarisyo)
・プロ奏者を輩出する教室でヴァイオリンを学ぶ
・日本トッププロ奏者(NHK交響楽団で弾いてた先生、プロオケでトップを弾いていた先生・・・)にも指導を受けた
・超ビビり&超あがり症。バッハのシャコンヌを発表会で弾いた時、緊張しすぎて、空中分解した経験あり。
こんにちは、超絶緊張しいヴァイオリニストのめっしーです
チャイコフスキー良いですよねー、メランコリック(物思いに沈んでる感じ)で、どこか繊細で、心に入ってくる。
大学オケとかでも、よく演奏されてて、
一番はじめにハマった作曲家がチャイコフスキー、なーんて人も多いじゃないかな?ぼくもそう
この記事では、チャイコフスキーについてお話していこうと思う
チャイコフスキ―を一言でいうと、ガラスのハートを持った人。
繊細で、神経質なチャイコフスキーがどんな人だったのか?一緒に見ていこう
10代までのチャイコフスキー【レールの敷かれた平凡な人生】
10代のチャイコフスキーを見ていこう
チャイコフスキー誕生
1840年、5月7日、
ロシアのヴォトキンクスという街で生まれる
ヴォトキンスクは、森や川に囲まれた街
はっきり言ってしまえば、田舎街なんだけれども、
チャイコフスキーは8才まで、自然豊かなこのヴォトキンスクで過ごす
ヴォトキンスクを散歩してみよう
チャイコフスキーのお父さんとお母さんについて
チャイコフスキのお父さんは、鉱山の監督官をつとめる貴族、今でいえば県知事が市長みたいな感じ、
お母さんはフランス人の血をひく女性。
ヴォトキンスクは自然豊かな街であるとともに、鉱山の街でもあった
チャイコフスキーのお父さんは、ヴォトキンスクの鉱山で働いていた
お父さんは活発で、社交的な人。
チャイコフスキーのお母さんはどんな人だったの?
チャイコフスキーのお母さんは、フランス語とドイツ語を話し、歌が上手い、ピアノもちょっとだけ弾ける、教養豊かな人
性格は控えめ、神経質。
チャイコフスキーの繊細で神経質な性格はお母さん譲り
こんな二人のお父さんとお母さんに育てられる
不自由のない生活
平凡な家庭
ガラスの坊や
チャイコフスキーは4才ぐらいから、ピアノを習いはじめる
ピアノの先生はチャイコフスキーのこと「ガラスの坊や」と呼んだ
チャイコフスキーはあまりにも繊細だった、すぐに割れてしまいそうだった
あなた(チャイコフスキー)はほんとうに感じやすい、神経質な子供だったので、少しでも小言を言おうものならはげしく泣いて、こちらが後悔するぐらいでした
音楽家の伝記 はじめに読む1冊 チャイコフスキー ひのまどか著
特に音楽については繊細だった、病的に感じやすかった
音楽を聴いたあと、夜にチャイコフスキーは騒ぎ出す
泣き叫ぶ
頭の中から音楽が離れないよ~(爆泣)
ピアノの先生にこんなこと↑を言っていた
チャイコフスキーは音楽を聴くと、その音楽が頭から離れずに、寝れないこともしばしばだった
繊細、あまりにも神経質
ガラスの坊や、チャイコフスキー。
法律学校に入学。音楽は身分の低い人の仕事
10才になったチャイコフスキーは、ペテルブルグの法律学校に入学する
エリートコース
音楽学校じゃないんだ・・・
当時のロシアでの音楽家は、身分の低い人の仕事とされた
貴族出身のチャイコフスキーは(少なくとも10才のチャイコフスキーにとっては)、音楽家になるなんて1ミリも思っていなかった
法律の役人になって平凡に暮らすんだろうな・・・
ただ、音楽をやめたわけじゃない
本業の法律の勉強のかたわらで、音楽の勉強も続けていた
もちろん、音楽で生きていくためじゃなくて、「あくまで貴族のたしなみ」として。
母の死、音楽に支えられる
チャイコフスキー14才のとき、お母さんが亡くなる
コレラという病気
コレラという病気は重度の下痢を伴う感染症で、治療しなければ75~80%の人が亡くなってしまう
チャイコフスキーは目の前が真っ暗になった
絶望
母の死という絶望から、チャイコフスキーを救ってくれたのは「音楽」だった
音楽に寄りかかり、癒しをもとめ、絶望を振り切るために没頭していった
法律学校を卒業、法務省に就職、エリートコース
チャイコフスキーは19才で法律学校を卒業した
30人中、13番目という、なんとも言えない成績だったらしい
卒業と同時に法務省に就職
当時の貴族の息子が進む、ふつーのエリートコースだった
なんかここまでのチャイコフスキーの人生を見てみると平凡、だね。なんか一般家庭みたい(笑)
神童モーツアルト、音楽一家のバッハ、鬼畜な音楽教育を受けたベートベン・・・比べる人が悪いかもだけど、歴代の作曲家と比べると、、普通かな(笑)
だねー(笑)
わりとふつーの家庭で育ったからこそ、多くの人に共感される音楽が作曲できたのかもしれないね
20代のチャイコフスキー【エリートコースから音楽家の道へ、ボロカスの批判】
20代のチャイコフスキーを見ていこう♪
音楽家として生きたい
法務省の仕事のかたわら、音楽を勉強していたチャイコフスキーなんだけど、
音楽家を目指す一つのきっかけとなったのが、ヨーロッパ旅行
ドイツ、ベルギー、オランダ、フランスを回った
チャイコフスキーの目には、ヨーロッパの国々が輝いていて見えた
ヨーロッパでは、音楽家が立派な仕事だと考えられている
ロシアでは身分の低い人の仕事とされている仕事が、ヨーロッパではちゃんとした仕事になっている
チャイコフスキーは興奮した
おれも音楽家として生きたい
チャイコフスキーの夢は膨らんでいく
音楽院への入学
チャイコフスキーの音楽への情熱は止まらない
ペテルブルグの音楽院に入学する、22才のとき
はじめは法務省をやめずに、音楽院に通った
法務省の仕事はつまんないけど、カネはもらえるし・・・
ただ、すぐに法務省と音楽の勉強という掛け持ち生活に終わりを告げる
チャイコフスキーは法務省をやめた
エリートコースから外れた
おれは音楽で生きていく
音楽一本で生きていくことを決める、23才のとき
チャイコフスキーの頭の中は、音楽で埋め尽くされていた
ペテルブルグ音楽院での生活、やっぱビビりなんけども
チャイコフスキーの音楽院生活がはじめる
チャイコフスキーはどんな生徒だったんだろう
ペテルブルグ音楽院でのチャイコフスキーは、超優秀だった
才能がにじみ出ていた。
ペテルブルグ音楽院の先生が、チャイコフスキーの作曲した曲のすごさに興奮して、
『チャイコフスキーの作品めっちゃすごいわ、授業なんてしてる場合じゃない、チャイコフスキーの作品見てや』
って、ほかの授業中の教室に乗り込んでいったぐらい
超優秀。
ただ、超優秀なんだけれども、子供のころかの繊細さは残っていた、ガラスのハートは20才を超えてもそのままだった
チャイコフスキーのビビりエピソードに、こんな話がある
ペテルブルグ音楽院の卒業課題として、曲をひとつ作るのが決まりだった
作った曲は、ペテルブルグ音楽院の専属オーケストラで演奏される
さらに、卒業のためには卒業審査があって、お偉い先生からの質問攻めを受けなければいけない
チャイコフスキーはビビる、ビビる、ビビる
先生からコテンパにされるのが、怖い、怖い、怖い
専属オーケストラの演奏、チャイコフスキーは最後まで姿をあらわさない
卒業審査もボイコット
ペテルブルグ音楽院の先生はブチ切れ
『何やっとんが、チャイコフスキーは!?!?!?!?!?、審査に来ないなんて信じられん、卒業なんてさせねーかんな』
一時は卒業資格も与えないっていう話にもなる
まあ、何とか卒業できたんだけども。
モスクワ音楽院へ
25才でペテルブルグ音楽院を卒業したチャイコフスキー
新しく出来たモスクワ音楽院で、音楽理論の先生をすることになった
寂しがり屋のチャイコフスキーは、悲しみいっぱいでペテルブルグを去る
(´;ω;`)
モスクワについたあとも、チャイコフスキーのメンタルは不安定だった
妹にこんな手紙を送っている
「モスクワは、おかしな場所だ。この町にあと何年もいるなんて考えただけでもぞっとする。
なれるまで、まだずいぶん時間がかかるだろう。
もしかしたら、永遠に馴染めないかもしれない。」
19世紀の代表的作曲家 チャイコフスキー マイケル・ポラート著 五味悦子訳
いわゆるホームシックってやつね
『交響曲第1番』の作曲と、まばらな拍手
チャイコフスキー26才のとき、はじめての交響曲を作曲する
ホームシックから立ち直るべく、作曲をはじめた、交響曲の
チャイコフスキーにとって、はじめての大曲だった
寝る時間も惜しんで作曲
無理がたたって発狂寸前まで体調を壊すんだけど、なんとか《交響曲第1番「冬の日の幻想」》を作曲する
初めての交響曲の評判はどうだったの?
チャイコフスキーの初めての交響曲の初演、結果は微妙、まばらな拍手。
微妙な結果になった大きな理由の一つが、個性を前面に出して、感情移入しまくって作曲したから。
初めて交響曲を作曲したときのロシアは、感情移入した、ロマン的な曲を嫌った
当時のロシアは、感情移入する曲じゃなくて、作曲テクニックをひけらかすような曲が良い曲とされた
チャイコフスキーの音楽は、最先端すぎて、多くの人に理解されることはなかった
心を表現してなんぼなのに・・・
オペラの作曲、ロシア人のオペラなんて演奏したくない
チャイコフスキー28才のとき、オペラを作曲する
《ヴォエヴォーダ(地方長官)》という作品。
はじめてのオペラ初演も、微妙な結果
当時のロシアはヨーロッパが大好き
ヨーロッパファースト、フランスとか、イタリアとか。
ロシア人のオペラの演奏も毛嫌いされた
やっとこさ、初演に向けた動き出したかと思えば、
二流の演奏家と、二流の歌手、使い古された衣装
チャイコフスキーの音楽が良くても、観客を満足させることなんて、とうてい無理な話だった
評論家もボロカスにチャイコフスキーのオペラを攻撃した
『なに?ドイツ、イタリアのパクリみたいなこの曲は、やる気あんの?』
チャイコフスキーは発狂して楽譜をやぶり捨てた
あ゛ーーーー
初めての指揮、緊張で頭が真っ白
オペラの作曲と同じ時期に、チャイコフスキーは始めて指揮台に立つ
はじめてのオペラの宣伝みたいな感じで、《ヴォエヴォーダ(地方長官)》から1曲演奏することに
《間奏曲と侍女の踊り》という曲
勤め先のモスクワ音楽院の上司から、
『《間奏曲と侍女の踊り》の指揮はそんな難しくないから、やったら?』
って言われる
チャイコフスキーは余裕の回答
OK、いいっすよー
ただ、指揮台に立った途端、チャイコフスキーの様子がおかしい
挙動不審、きょろきょろ
完全にアガッていた、緊張して自分がどこにいるかもわからないぐらいパニックになっていた
震える手で、弱弱しく指揮棒を振り下ろす
自分がどこを振っているのかわからない、ここはどこだ?
楽団員はチャイコフスキーが激しくアガッていることがわかると、当てにならないチャイコフスキーの指揮を無視
目が点になっているチャイコフスキーをみて、笑う楽団員もいた
演奏が終わる
人生の終わりかのように指揮台から降りるチャイコフスキー
のち、19年間は指揮をすることはなかった
失恋、売れっ子歌手に
28才のチャイコフスキーは恋をした
相手はパリ生まれの売れっ子歌手
ゾッコンだった
好きだ
美しい声、パリ生まれの売れっ子歌手のために曲もかいた
父親に婚約を知らせる手紙も書いた
ぼくの心を、どうしてもデジレ(売れっ子歌手)から引きはなすことはできません。
あの人なしで生きていくことは、今のぼくには考えられません・・・。
19世紀の代表的作曲家 チャイコフスキー マイケル・ポラート著 五味悦子訳
ただ、この恋も一瞬で終わる
パリの売れっ子歌手が、スペイン人の歌手と結婚してしまう
チャイコフスキーは真っ青
激しい失恋だった
なんで別の人と結婚したんだろー?
パリの売れっ子歌手が、ロシアの田舎モノ(チャイコフスキー)と釣り合わないと思ったのか、スペイン人の歌手に激しく言い寄られたのか、、、、
妹大好きと《ロミオとジュリエット》の作曲
交響曲、オペラの微妙な結果、失恋とボロボロだった
チャイコフスキーは癒しを求めて妹に会いに行く
チャイコフスキーはシスコンだった、妹大好き
妹はもう結婚してて、家を出ていたんだけど、事あるごとに妹家族にお邪魔する
電池を充電するみたいに。
チャイコフスキーの妹の家は、ウクライナのカーメンカというところにあった
下の地図のマークがついてるところ(チェルカッスイという街)が、だいたいのカーメンカの場所
穀倉地のど真ん中、自然に囲まれた、平屋建ての一軒家
チャイコフスキーは、傷ついたこころを癒すために自然豊かなカーメンカでひと夏を過ごす
大好きな妹にも会えたし、散歩したりゆっくりして、元気出てきた
チャイコフスキーは復活した
カーメンカから、モスクワに戻る
そんな復活したチャイコフスキーが作曲したのが《幻想序曲「ロミオとジュリエット」》
決して結ばれない恋の物語
チャイコフスキーは感情を《幻想序曲「ロミオとジュリエット」》にぶつけまくった
《幻想序曲「ロミオとジュリエット」》は成功したの?
チャイコフスキーが30才のときに初演されたんだけど、失敗したと言われてる
また、評論家にフルボッコにされた、感情のままに曲を作るなんて気持ち悪い、と。
当時の評論家は、感情を描く曲じゃなくて、作曲テクニックを見せびらかす曲を良い曲だと思っていた
でも、聴衆は違った
チャイコフスキーの音楽の良さに気づき、共感していった
30代のチャイコフスキー【金持ちの支援者との出会いと不幸な結婚】
30代のチャイコフスキーを見てみよう♪
《ピアノ協奏曲第1番》の作曲、上司と喧嘩
チャイコフスキー 35才のとき、《ピアノ協奏曲第1番》を完成させる
はじめてのピアノ協奏曲
この《ピアノ協奏曲第1番》の作曲で、上司とバトルする
できたてホヤホヤの《ピアノ協奏曲第1番》の楽譜を持って、ピアノの名手である上司にいく
《ピアノ協奏曲1番》の出来栄えを見てもらうため、
そして、ピアノの名手である上司に初演をお願いするため
上司の前で、《ピアノ協奏曲第1番》の1楽章を弾く
どうでしょうか?
無言
2楽章、3楽章も弾く
無言
・・・・どうでしょうか?
やっと上司は口を開く
『こんなウ〇コみたいな曲は弾けん』
チャイコフスキーは耳を疑った
『なんだ?このクソみたいな曲は』
チャイコフスキーは無言で部屋を出た、怒りで同様していた。
上司はチャイコフスキーを追ってきて、
『私の言う通りに《ピアノ協奏曲第1番》を書き直したら、弾いてやってもいいけど?』
チャイコフスキーもブチ切れ、
音符ひとつだって書き直したくないわ、このまま出版する
怒りで声は震えていた
チャイコフスキーは上司を無視して、《ピアノ協奏曲第1番》をそのまま出版する
上司と喧嘩したチャイコフスキーは、上司とは別の人に《ピアノ協奏曲第1番》の初演を頼むことにした
ちょうど、アメリカの演奏会控えている人に《ピアノ協奏曲第1番》の初演を依頼
アメリカで《ピアノ協奏曲第1番》は初演された
また失敗だったの?
アメリカでの《ピアノ協奏曲第1番》の初演は大成功
拍手、拍手、拍手
『成功!大成功!聴衆は君(チャイコフスキー)の協奏曲に熱狂した。
この曲はいまに世界を征服するだろう!』
音楽家の伝記 はじめに読む1冊 チャイコフスキー ひのまどか著
それみろ、手直しする必要なんてなかった
《ピアノ協奏曲第1番》の大成功を聴いて焦ったのが、チャイコフスキーの上司
あれだけボロカスに言った曲が大成功してしまって、面目丸つぶれ
《ピアノ協奏曲第1番》をボロカスに言った発言を撤回する
バレエ《白鳥の湖》の作曲
チャイコフスキー 35才のとき、
バレエ《白鳥の湖》を作曲する
真夜中にだけ人間に戻ることができる、白鳥の女の子と、結婚相手を探す王子様の報われない恋の話
バレエって聞いて、どんなことをイメージするだろうか?
貴族?お嬢様?
当時のバレエは全然違う
男を楽しませるための娯楽、下品な趣味
チャイコフスキーがバレエ音楽を作曲するって聞いて、反対する人もいた
『あなた(チャイコフスキー)ほどの人が、あんな下品な趣味(バレエ)に音楽をつけるなんて、才能の無駄遣いだ』
チャイコフスキーは反論する
バレエを人の心を打つものにしたい、なんたって、バレエ大好き
チャイコフスキーは《白鳥の湖》を完成させる
結果?
大失敗
また、評論家にフルボッコにされる
新しいバレエの音楽は単調で、退屈である。
チャイコフスキー 「サントリー音楽文化展」記念出版
チャイコフスキーはまた凹む。
自分の音楽がクソだったから・・・
ただ、失敗の原因はチャイコフスキーのせいではなかった
《白鳥の湖》を上演した劇場の人が、《白鳥の湖》の音楽が長くて、難しいって感じたらしく、3分の1ぐらいの大幅カット
カットした部分に、流行りのダンスをいれたりした、ツギハギ作品の出来上がり
あとは、あまりにも芸術性が高くて、聴衆が音楽についていけなかったってのもある
《白鳥の湖》は1回の上演でボツにされた
バレエ《白鳥の湖》がみんなに受け入れられるのは、チャイコフスキーの死後、2年たったあと
けっして顔を合わせないと誓った、金持ちのM夫人との文通
チャイコフスキーを語るのに大事な人がいる
大金持ちのM夫人(正しくは、フォン・メック婦人という人、わかりやすくするためにM夫人としている)
スッと背筋が伸びていて、どこか悲しい目をしている人
お金持ちの夫に先立たれた人
M夫人はチャイコフスキーにお金の支援をする
お金だけじゃない、M夫人は精神的な支えにもなる
M夫人と凄まじい数の手紙が行き来した、1103通。
チャイコフスキーは貧乏だった、借金もあった
そんなチャイコフスキーに、M夫人からヴァイオリンとピアノのための曲をつくって欲しいという依頼がくる
お金に困っていたチャイコフスキーは即返事
ヴァイオリンとピアノね、OK
チャイコフスキーのつくった曲はすぐにM夫人のもとへ
M夫人からお礼の返事がくる、大金の入った封筒つきで。
「あなた(チャイコフスキー)の音楽は、わたし(M夫人)に生きる喜びと力をあたえてくれます。」
19世紀の代表的作曲家 チャイコフスキー マイケル・ポラート著 五味悦子訳
お礼の手紙から、チャイコフスキーとM夫人の文通が始まる
文通は14年も続いた、1103通
そして金銭的な支援も14年も続いた
チャイコフスキーからお金の不安が消えた、作曲に集中できるようになった
手紙のやりとりはしてるけど、M夫人とは会って話すことはなかったの?
ちゃんと面と向かって話すことはなかった
チャイコフスキーとM夫人の間には、こんな約束があった
「顔を合わせることが絶対あってはならない」
なんか、変な感じというか、ゲームといか、会わずに手紙をやりとりするって言うのが二人のルールだった
たまたま出くわすことはあっても、お互い知らん顔をした
手紙だけが二人の関係を強く結びつけていった
不幸な結婚
チャイコフスキー 37才のとき結婚する
幸せ?
いや、不幸の始まりだった
チャイコフスキーが結婚しようとした一番の理由は、同性愛者だったから、男が好き
当時のロシアでは、同性愛者は頭が狂っていると思われていた
チャイコフスキーは同性愛者であることが、バレるのが怖かった
同性愛者であることがバレたら、まともに生活できなるかもしれない・・・なんとかしなくては、、
そこで、チャイコフスキーはあることを思いつく
結婚
結婚すれば、(表面上は)同性愛者であることを隠すことができる
結婚しよう
そんなことを思っていると、ある女性から求婚の手紙を受け取ることになる
『先生のお姿を音楽院でお見かけして以来、片時も忘れずおしたいしています。
わたくしを、はしたない女と考えでしょうね。
でもわたくしはあなた無しでは生きていけません。
すぐにでも自殺したいくらいです。
ですからお目にかからせてください。
キスさせてください、この世の思い出に。
さようなら。
永遠にあなたのもの。』
A・M
音楽家の伝記 はじめに読む1冊 チャイコフスキー ひのまどか著
手紙からなんかヤンデレな空気を感じるな、、なんか近づいてはいけない、、ような
チャイコフスキーは一度は断ったものの、結婚の申し出を受け入れる
愛が微塵も感じられないプロポーズから、チャイコフスキーの結婚生活は始まる
君のことは別に好きじゃない。でも結婚したいのなら、してもいい
結婚生活はチャイコフスキーを衰弱させた
二人はあまりにも違い過ぎた
静かな生活を好むチャイコフスキー
きらびやかな生活を望む妻
繊細なチャイコフスキーは限界だった
発狂しそうだ
チャイコフスキーは数週間で妻から逃げだす
氷雨の中を歩く
体をガンガンい冷やして、ひどい病気になれば死ねるんじゃないかと思ったチャイコフスキー
極寒の中、下半身を川に沈めたこともあった
幸運なことに、風邪をひいただけで終わったんだけれども。
結婚してからチャイコフスキーは別人のようになった、青白い顔
チャイコフスキーかわからないレベル
医師からもすぐに妻と別れるようにと言われた
チャイコフスキーの結婚生活は破綻した
休息と復活、《交響曲第4番》の作曲
チャイコフスキーは、不幸な結婚生活でボロボロだった
死ぬことすら考えた
スイスのクラランで静養する
チャイコフスキーは自然に囲まれたスイスで、少しずつ元気を取り戻していく
パリ、フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、ウィーンを旅しながら、作曲を再開する
作曲をすることで、ツライ結婚生活を忘れることができた
このヨーロッパ旅行で書かれたのが、《交響曲第4番》
《交響曲第4番》のテーマは「運命」
幸せになりたい、けれども幸せを妨げる暗い現実、そんな「運命」が《交響曲第4番》のテーマ
どうにもならない「運命」を描いた、幸せを永遠に掴み取れない私の「運命」のように
幸せな、静かな家庭生活を夢見ていたチャイコフスキー、淡い夢は永遠にかなわない
結婚生活で待っていたのは死をも覚悟する絶望、そんな自分の「運命」に対する気持を描いたのかもしれない。
《交響曲第4番》はM夫人に捧げられた
M夫人との手紙のやりとりは、チャイコフスキーの力の源となっていた
M夫人はチャイコフスキーの金銭的に支援した人。
金銭面だけじゃなくて、手紙を通じて、精神的にもチャイコフスキー支えた人(詳しくはこちら)
《ヴァイオリン協奏曲》の作曲
チャイコフスキー 38才のとき、《ヴァイオリン協奏曲》を作曲する
ヴァイオリン弾き、みんなの憧れの曲
チャイコフスキーはラロの《スペイン交響曲》に影響されて、《ヴァイオリン協奏曲》の作曲をはじめる
よっしゃ、ヴァイオリン協奏曲、書いてみよ
ヴァイオリンの名手であったレオポルド・アウアーという人に、《ヴァイオリン協奏曲》の初演をお願いするんだけども、難しくて弾けねーわと断られる
『この曲はあまりにもむずかしくて、あまりにも長すぎます。このままでは演奏できません』
音楽家の伝記 はじめに読む1冊 チャイコフスキー ひのまどか著
チャイコフスキーは別のヴァイオリニストに頼んで、《ヴァイオリン協奏曲》を初演
《ヴァイオリン協奏曲》の初演は不評
「悪臭を放つ音楽」とまでいわれた
でも、初演を任されたヴァイオリニストはチャイコフスキーの《ヴァイオリン協奏曲》の良さに気づいていた
雑草魂で、初演を任されたヴァイオリニストは、何度もチャイコフスキーの《ヴァイオリン協奏曲》を取り上げる
チャイコフスキーの《ヴァイオリン協奏曲》の良さが理解される
一時は演奏できねーって言った、ヴァイオリンの名手、アウアーも自分のレパートリーにチャイコフスキーの《ヴァイオリン協奏曲》に入れる
難しくて、演奏できねよーって言ったのは表面上で、実は、自分(アウアー)じゃない人に、アドバイスをもらいにいったことにムカついて、演奏できねーよって言ったとも言われる
モスクワ音楽院の退職
38才のチャイコフスキー、
12年間働いてきた、モスクワ音楽院を退職する
もっと作曲に集中したい
40代のチャイコフスキー
40代のチャイコフスキーを見ていこう
放浪の生活、寂しがり屋と手紙魔
モスクワ音楽院をやめて、自由の身になったチャイコフスキー
家を持たずブラブラさまよう
ロシア、ヨーロッパを転々とする
孤独?
孤独だったかもしれないが、手紙がチャイコフスキーの孤独の支えになった
1日に20通近い手紙を書くこともあった
“手紙魔”と言ってもいいぐらいだった
手紙大好き、手紙野郎
手紙だけが、チャイコフスキーの寂しさ、孤独を支えた
《序曲1812年》の作曲
40才のとき《序曲1812年》を作曲した
《序曲1812年》の依頼は、やめたモスクワ音楽院の上司、恩師からの依頼
しぶしぶ作曲に取り掛かる
あんまりやる気しないけど、恩師からの依頼だし、断りにくい・・・
ヨーロッパ征服をたくらむ、ナポレオンとかいう人が、ロシアを侵略しようとする
《序曲1812年》はそんなロシア侵略しようとするナポレオン軍を、ロシア軍がやっつけた話をもとにしている
ナポレオン軍は勢いづいていて、ロシア軍をバッタバッタと倒していく
ナポレオン軍の勝利は確実かのように見えた
でも、待てども待てども、ロシア軍は白旗を挙げない
冬になった
ロシアの冬は寒いなんてもんじゃない
マイナス何十度まで下がる
ナポレオン軍では、寒さによる凍死者が何人も出た
そんなナポレオン軍にロシア軍が襲い掛かる、雪の大平原。
ロシア軍の大勝利
70万のナポレオン軍は、3万まで減っていた
乗り気じゃなかったチャイコフスキーは《序曲1812》が好きじゃなかったらしく、
うるさいだけで、芸術価値ない
って言っている。
評論家たちも、芸術的な価値はないと、ボロカス
ただ、一般市民は違った
《序曲1812年》は世界中で演奏されている
《弦楽セレナーデ》の作曲
《序曲1812年》作曲に続いて、《弦楽セレナーデ》の作曲にも取り掛かっていた
《弦楽セレナーデ》はチャイコフスキーが、《序曲1812年》みたいに依頼とかじゃなくて、自分の意志で作曲したいと思って作った曲
《弦楽セレナーデ》は、私の湧き出る感情から作った、気持ちのこもった曲
放浪の終わり、帰るべき家を見つける
45才のとき、放浪生活に終わりを告げる、放浪生活は8年に渡っていた
家を持つことに決める
チャイコフスキーは放浪生活に疲れていた
静かで、自然に囲まれている、心の支えとなる家が欲しい
作曲に集中したい。
チャイコフスキーはそんな思いに襲われる
家探しを始める
モスクワから北に90キロ、クリンに近い、マイダノヴォ村に家を持つ
チャイコフスキーの家の近くには、川があり、森があり、心安らぐ散歩道があり、自然に囲まれていた
繊細なチャイコフスキーを包み込んでくれる場所、空気。
チャイコフスキーも手紙でこんなことを言っている
『森、小川、野原、村・・・。
クリンの田園風景はわたしを言いようがないほど私を幸せにしてくれます。』
音楽家の伝記 はじめに読む1冊 チャイコフスキー ひのまどか著
孤独。
孤独を包み込んでくれる場所を手に入れることができた
チャイコフスキーはそんなことを思ってたんじゃないだろうか。
指揮者としてのチャイコフスキー、あがり症の克復
47才のチャイコフスキー、指揮者としてブレイクする
チャイコフスキーはオペラ『チェレビチキ』という自分の作品の指揮をすることになる
オペラ『チェレビチキ』をする予定だった指揮者が急病で倒れた
チャイコフスキーは焦る
どうしよう、どうしよう、どうしよう(オロオロ)
代役を任せられるような指揮者はいない
チャイコフスキーは自分が指揮することを決心する
チャイコフスキーは、1度指揮者として失敗していた(忘れた方はこちら)
19年前の自分の姿が脳裏によみがえる
パニックで何をしたのか記憶に残っていない、楽団員から笑われる
不安だった
オペラ『チェレビチキ』の指揮をする日の前夜、
緊張のあまり、めまい、吐き気、頭痛に悩まされた
不安。
本番当日、
不安でいっぱいなチャイコフスキーは指揮棒を振る
あまりにも見事な指揮
大成功だった
ぼくにこんな指揮ができるなんて・・・
チャイコフスキー自身も驚いていた
なんでチャイコフスキーはあがり症を克服できたんだろう?
理由のひとつに偉くなったからっていうの、あると思う。
ロシア音楽協会のモスクワ支部長だったりして、自分が一番偉い。
お偉い人の批判を怖がる必要がなくなったから、緊張しにくくなったんじゃないかな
引っ張りだこ指揮者と作曲家との出会い
指揮者としてチャイコフスキーは引っ張りだこ
ヨーロッパ各地を回った
ウィーン、ドイツ、プラハ、ロンドンへの演奏旅行。
各地を回る中で、作曲家との出会いがあった
7才年上のブラームス、3年下のグリーグ、ほとんど同い年のドボルザーク。
チャイコフスキーはブラームスが好きじゃなかった
ブラームス、なんか回りくどい
チャイコフスキーとブラームスが親しくなることはなかった
一方で、グリーグには少年のように曲の感想を言ったり、
グリーグさん、《ペール・ギュント》最高やったわ
ドボルザークとは固い握手をかわした
チャイコフスキー、ドボルザークとも、自分たちの国の音楽を愛している、そんな気持ちに共感し合ったみたいよ
《交響曲第5番》の作曲
48才のとき、チャイコフスキーは《交響曲第5番》を作曲する
演奏旅行から帰ってきたチャイ子スキーは、お気に入りだったマイダノヴォ村から、隣村のフロロフスコエ村に引っ越す
マイダノヴォ村に家が増えてきて、もっと静かなところに行きたい、それが引っ越し理由だった
チャイコフスキーはフロロフスコエ村をとても気にいっていた
家も、景色も、庭も、すべて最高
青々と広がる田園風景に囲まれた村、牛がまったりと草を食べている、なんだろ、時間が止まったような、まったりとした空気のある場所。
《交響曲第5番》の作曲に取り掛かった
10年越しの交響曲《交響曲第5番》は「運命」をテーマにしている
苦しみ、絶望、苦悩・・・
人はどうやったら、苦と向き合い、そして勝利することができるのか、そんなことをテーマにしている
《交響曲第5番》でもっとも美しく、悲しく、苦しみを歌ったのが、2楽章のホルンじゃないだろうか
暗い絶望、苦しみを表現した弦楽器の中からホルンが浮かびあがる
ホルンはチャイコフスキーの孤独を代弁していると思う
過去を懐かしむ、暖かい家族
でも、そんな淡い幸せを手にいれることはできない
孤独。
誰にも理解されない孤独、孤独から逃れられないあきらめ、もどかしさ、そんなことをホルンを通して語ってると思う
田園風景の中でポツンと立つ一軒家で作曲するチャイコフスキー
バレエ『眠れる森の美女』の作曲
チャイコフスキーは作曲意欲に満ち溢れていた
頭に音が鳴りまくってる、作曲したい、作曲したい気持ちを押さえられない
49才のとき、バレエ音楽『眠れる森の美女』を作曲する
お姫様が16才のときに魔女に呪いをかけられる
100年の眠り続けるという魔法。
お姫様の誕生パーティーに招かれなかった魔女がムカついて、お姫様に呪いをかける
100年後、王子様がやってきて、お姫様にキス
魔法が解けて、王子様とお姫様が結婚するっていうハッピーエンドのお話
バレエ『眠れる森の美女』は大成功だった
バレエが下品な趣味から、芸術へと変わっていく
50代のチャイコフスキー【「悲愴」と突然の死】
50代のチャイコフスキーを見てみよう
M夫人との決別
金銭的にも、精神的にもチャイコフスキーの支えとなっていた、M夫人から決別の手紙が届く
M夫人はお金に困っていたチャイコフスキーを支援した人。手紙のやり取りを通じて、心の支えになった人。
「ずっとお渡ししていた援助金を、打ちきらなければならない時がきました」
「二人の友情もこれでおしまいです」
「わたしを忘れないでください。そして、ときどきは思い出してくださいね」
19世紀の代表的作曲家 チャイコフスキー マイケル・ポラート著 五味悦子訳
チャイコフスキーはこの決別の手紙に返事を書く
お金の援助がなくても、私たちの友情は消えません
M夫人から返事は帰ってこなかった
14年続いた文通が終わった
なんで急に文通が終わったの?
肺結核にかかったとか、精神的に病んだとか、死期を察して終わりにしようとしたとか・・・
いろいろな理由があるみたいだけど、ホントのところはわからない、50才のとき
大好きな妹の死
チャイコフスキー 51才のとき、大好き妹が亡くなる
チャイコフスキーは泣いた
泣き続けた
自分にも死が近づいていることを感じていた
バレエ『くるみ割り人形』の作曲
52才のとき、バレエ『くるみ割り人形』を作曲する
バレエ『くるみ割り人形』はクリスマスのお話
主人公のクララは、おじさんからクリスマスプレゼントとして、くるみ割り人形をもらう
せっかくもらったくるみ割り人形なんだけど、クララのお兄ちゃんに壊される
クララは壊れたお人形をツリーの下の人形のベットに、くるみ割り人形を寝かせる
夜、
クララはくるみ割り人形のことが気になって、様子をみる
すると、ネズミ軍とくるみ割り人形率いるおもちゃ軍が戦っている
押されるくるみ割り人形率いるおもちゃ軍
クララはくるみ割り人形軍を助けるために、ネズミの隊長にスリッパを投げる
ネズミの隊長に、スリッパが直撃したんだよねー
フラフラと倒れるネズミ隊長
くるみ割り人形率いるおもちゃ軍の勝利
くるみ割り人形はクララにお礼を言う
すると、いつのまにかくるみ割り人形はイケメン王子になっていた
二人はお菓子の国で、パーティをすることに
こんぺいとうの精、チョコレートの精、お茶の精、いろんな精霊が躍る、楽しいパーティ・・・
ふと気づくと、クララはクリスマスツリーの下で寝ていた
すべては夢だった。
『くるみ割り人形』はこんな話
『くるみ割り人形』は評論家に叩かれた
「なんだなんだー?この芸術もクソもない曲は!」
チャイコフスキーは批判されても無視した、傷つかなかった
評論家に理解されなくても、私の音楽を理解してくれる人はたくさんいる
評論家にボロカスに言われたんだけど、『くるみ割り人形』の初演は大成功だった
音楽を心から愛する一般市民は、チャイコフスキーの音楽に心動かされていた
《交響曲第6番「悲愴」》の作曲
チャイコフスキーは「悲愴」と呼ばれる、《交響曲第6番》を作曲する
今まで作った曲への愛情がかすむぐらい、この曲が好きだ
《交響曲第6番》の一番テーマは、絶望からくる号泣
4楽章が、《交響曲第6番》の核心の部分
自分の無力さ、なぜ自分は生きているのだろうか、生きている意味はあるのだろうか?
答えを探すけど、答えはないもどかしさ
苦しみ、もがき、泣き叫ぶ。
チャイコフスキーは考えてなかったみたいだけど、「死」の絶望を感じる
妹の死をはじめ、多くの死を経験したチャイコフスキー
「死」を経験したときの、人間のはかなさ、「生きる」とは何なのか
必ず訪れる「死」への恐怖、絶望、怯え、そんな人間の心の中を《交響曲第6番》では表現したかったんじゃないだろうか。
《交響曲第6番》の初演は観客を混乱させた
普通の交響曲のクライマックは激しく終わる
《交響曲第6番》は違った
消え入るように終わる、「死」を連想させるかのように。
突然の死
死は突然訪れる
チャイコフスキーは喉が渇いて、水道の生水を飲む
次の日から激しい下痢がはじまる
コレラだった
チャイコフスキーの母が亡くなった病気
チャイコフスキーは自身の死を悟った
ほんの数時間の間におどろくほど変わっていた。
目は落ちくぼみ、唇は白く腫れ上がり、顔は土色になっていた。
音楽家の伝記 はじめに読む1冊 チャイコフスキー ひのまどか著
1893年、53才でチャイコフスキーはこの世を去る
《交響曲第6番「悲愴」》で感じられた「死」への恐怖は、現実のものとなった
チャイコフスキーの年表、簡単に。
チャイコフスキーの年表を簡単に見ていこう
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- 1840年(0才)ロシアのヴォトキンスクという、鉱山で栄える田舎町に生まれる
- 1844年(4才)ピアノを習いはじめる、あまりに繊細だったので「ガラスの坊や」と言われた
- 1850年(10才)法律学校に入学する
- 1854年(14才)お母さんがコレラで亡くなる
- 1859年(19才)法律学校を卒業。30人中、13番目と平凡な成績。法務省に就職
- 1862年(22才)ペテルブルグ音楽院に入学
- 1863年(23才)法務省を辞める。音楽で生きていくことを決める
- 1865年(25才)ペテルブルグ音楽院を最優秀の成績で卒業する
- 1866年(26才)新しく出来たモスクワ音楽院の教授になる。はじめての交響曲を作曲、失敗
- 1868年(28才)はじめてのオペラ、評論家からボロカスに言われる。婚約をするが、婚約相手が別の人と結婚、失恋
- 1869年(29才)幻想序曲《ロミオとジュリエット》を作曲
- 1875年(35才)《ピアノ協奏曲第1番》を発表、アメリカで大ヒット
- 1876年(36才)《白鳥の湖》を作曲、ボロカスに批判される。M夫人と文通が始まる
- 1877年(37才)結婚するもすぐに破綻。発狂し、死をも覚悟する
- 1878年(38才)《交響曲第4番》、《ヴァイオリン協奏曲》を作曲
- 1880年(40才)《序曲1812年》、《弦楽セレナード》を作曲
- 1885年(45才)マイダノヴォ村に家を借りる
- 1887年(47才)指揮者として成功、演奏会に引っ張りだこ
- 1888年(48才)フロロフスコエ村に引っ越す。《交響曲第5番》を作曲する
- 1889年(49才)バレエ《眠れる森の美女》を作曲
- 1890年(50才)M夫人との文通が終わる
- 1891年(51才)大好きな妹が亡くなる
- 1892年(52才)バレエ《くるみ割り人形》を作曲
- 1893年(53才)《交響曲第6番「悲愴」》を作曲、コレラを発病してこの世を去る
本記事の執筆にあたり、以下の文献を参考にさせていただきました。
この場を借りて、感謝申し上げます。
1)音楽家の伝記 はじめに読む1冊 チャイコフスキー ひのまどか著
2)19世紀ロシアの代表的作曲家 チャイコフスキー マイケル・ポラード著、五味悦子 訳
3)チャイコフスキー 「サントリー音楽文化展」記念出版 著
4)チャイコフスキー 寺西春雄/音楽之友社 著
5)おはなし音楽会 3 チャイコフスキー 照屋正樹 著
めっしーのヴァイオリン教室【大人から始めた初心者限定のヴァイオリン教室】
この記事の著者、めっしーのヴァイオリン教室の特徴
- 大人からヴァイオリンを始めた、初心者限定のヴァイオリン教室
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- アマチュアオーケストラでトップ弾いたり、室内楽弾いたり、今はレッスンで超難曲のパガニーニのカプリースさらってる
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