バッハの生涯と人生について簡単に解説!
音楽に全力を注いだ、めちゃんこ頑固(ガンコ)おやじのバッハが、どんな人生を送ったのか?バッハの名曲ととも紹介しています
こんにちは、超絶緊張しいヴァイオリニストのめっしーです
『バッハをレッスンで見てもらっているけど、バッハってどんな人だったんだろう?』
『バッハのレッスンを受けてるけど、レッスンの曲以外は全然知らない』
バッハは音楽を勉強していれば、必ずと言って通る道
ヴァイオリンであれば、バッハのヴァイオリン協奏曲、ドッペル(2つのヴァイオリンのための協奏曲)、無伴奏ソナタ&パルティータ、ピアノであればインベンション、平均律・・・
でも、意外とバッハのことって知らない
バッハって、音楽の時間に見た絵の、イカツイおっちゃんのイメージしかない(笑)
バッハを一言でいうと
『めちゃんこ頑固(ガンコ)な職人さん』、です
バッハってどんな人だったんだろう?
そう思って本をあさる
仕事に高いプライドを持ち
音楽に一直線
それゆえに人とぶつかる事も多い
音楽のためなら上司とも真っ向勝負
仕事一筋でぶっきらぼうな職人気質が浮かびあがる
どんな高尚な人だったんだろう?って思っていたけど、人間味に溢れる人物
— めっしー@あがり症のヴァイオリニスト (@messi_agarisyo) September 26, 2021
バッハがどんな人だったかを辿っていくと、曲のイメージとは違ってどこにでもいる、子だくさんな頑固(ガンコ)おやじってイメージ
この記事では、『めちゃんこ頑固(ガンコ)な職人さん』のバッハが、どんな人生を送っていったのか、についてお話します
レッスンで見てもらっているバッハの曲以外聞いたことない、そんなときのために、バッハの名曲もピックアップして紹介していきますよ
アマチュアヴァイオリン奏者、ヴァイオリンは大人から(18歳から弾いています)
アマチュアオーケストラで、セカンドヴァイオリンのトップ奏者をしています
トップ奏者なのに超ビビりです
超ビビりな自分に悩みすぎて、カウンセリングを受けたことも
バッハの無伴奏ヴァイオリンはパルティータ2番(シャコンヌが入っている)、パルティータ3番(プレリュードが入っている)を弾いて、現在ソナタ1番のレッスンを受けています
ちなみにバッハのシャコンヌを発表会で弾きました
緊張しすぎて、暗譜が飛んで空中分解しましたが・・(笑)
それじゃあ行ってみよう
年表
ワタシの人生を振り返ってみる
0才(1685年)音楽家の父のもとで8番目の末っ子としてアイゼナッハで誕生
9才(1694年)バッハのお母さんが亡くなる
10才(1695年) バッハのお父さんも亡くなる、兄に引き取られ、兄からオルガンを教えてもらう
15才(1700年) 兄のもとを去り、リューネブルグの学校に合唱団のソプラノメンバーとして入学する 、が、すぐに声変わりになりクビの危機に・・他の楽器も得意だったので、なんとか学校に残ってもOKに
18才(1703年) リューネブルグを卒業し、アルンシュタットのオルガニストとして就職、人間関係のトラブルで恨みを買って襲われることも・・
22才(1707年) ミュールハイゼンのオルガニストとして転職、ミュールハイゼンの音楽のレベルが低く不満に、1年で辞める
23才(1708年) ワイマールの宮廷オルガニストとして就職、仲の悪い二人の上司に囲まれて人間関係で揉める、揉めすぎて牢屋にいれられたことも・・・
32才(1717年) ケーテンの宮廷楽長に転職、ケーテン時代にヴァイオリンやチェロの無伴奏を作曲する
38才(1723年) ワイマールでの上司とは友達のように仲が良かったが、上司が音楽嫌いな妃(きさき)と結婚、将来の不安からワイマールを去る
38才(1723年) ライプツィヒのカントル(学校の先生と音楽監督を合わせたみたいな職業)に就任、ライプツィヒでも人間関係のトラブルに、上司から嫌われすぎて給料を減らされたことも・・・
44才(1729年) コレギウム・ムジクム(お金を払えば誰でも聞けるコンサート、当時は珍しかった)の指揮者にもなる(ライプツィヒのカントルと兼任)、《2つのヴァイオリンのための協奏曲》や《G線上のアリア》などを作曲
51才(1736年) 『バッハの音楽は古い』と社会から批判される、社会だけでなく息子から『おやじの音楽は古い』と言われた、どんどん自分の殻に閉じこもっていく
56才(1741年) 《ゴルドベルグ変奏曲》を作曲、変奏曲の集大成としてマニア向けに作曲
64才(1749年) 糖尿病により、目がほとんど見えなくなる、ヤブ医者による手術によって目が完全に見えなくなる、治療と称して劇薬をヤブ医者から飲まされ、体はボロボロに
65才(1749年) バッハこの世を去る、バッハの音楽が社会から忘れられていく
死後(1829年) メンデルスゾーンによってバッハの素晴らしさが広められる、そして現代に至る
もっと詳しく見ていくよー
幼少期のバッハ(10才まで)【両親との別れ】
幼少期のバッハについて見て行こう
バッハは幼いころに、両親を亡くしてしまう・・・
音楽一家にバッハ誕生
1685年、ドイツ中部の町、アイゼナッハでバッハは生まれる
8番目の末っ子でした
アイゼナッハがどんな街か知りたい、そんなときはこちらをチェック▽
https://www.youtube.com/watch?v=lBFGxJJUm88バッハの父親は、ヴァイオリンとトランペット奏者
父親だけでなく、バッハ家は音楽家だらけでした
ワタシが作った家系図には、
53人の音楽家バッハがいる
両親との別れ
バッハ9歳のとき(1694年)、バッハの母親がこの世を去った
そして、翌年のバッハが10歳のとき(1695年)、父親が続いてこの世を去りました
バッハはどうなっちゃうの・・・?
兄に引き取られる
両親を亡くしたバッハ少年
そんなバッハ少年を引き取ったのは、1番上の兄(クリストフ)でした
1番上の兄は凄腕のオルガン奏者で、あのカノンを作曲したパッフェルベルの弟子
パッヘルベルの作曲したカノンを聞きたい、そんなときはこちらをチェック▽
バッハはお世話になった兄をとても尊敬しており、こんなコメントを残している
「美しい楽想の着想においても言葉の表現においても優れていた」
バッハ=魂のエヴァンゲリスト 磯山雅
凄腕オルガン奏者の兄(クリストフ)によって、バッハはオルガン、そして音楽の魅力に取りつかれていく
助けてくれた兄には心から感謝している
音楽に熱中するバッハの一面
凄腕オルガン奏者の兄(クリストフ)のもとで暮らしていたバッハには、こんな話があります
凄腕オルガン奏者の兄(クリストフ)はパッヘルベルなど、大作曲家の楽譜をもっていた
バッハは大作曲家の楽譜が見たくて見たくてたまらない
バッハはオルガン奏者の兄にこう言います
楽譜見せてー
当時の大作曲家の楽譜はお宝同然、コピーされてしまったら楽譜の価値が下がってしまう。。。
そう感じたオルガン奏者の兄は、バッハの見せて見せて攻撃を断ります
ここで終わらないのがバッハ
意地でも大作曲家の楽譜がみたい
そう感じたバッハは、オルガン奏者の兄が寝るのを見計(みはか)らって、大作曲家の楽譜を盗み見します
そして、大作曲家の楽譜を勉強するために楽譜のコピーをしようとします
大作曲家の楽譜をコピーしてしまえば、たくさん勉強できるぞ
しかし、ラッキーなのはここまで
大作曲家の楽譜をコピーしていることが、オルガン奏者の兄にバレます
オルガン奏者の兄:『おい、何しとんじゃこりゃ(怒)(怒)(怒) 』
バッハの大作曲家のコピー楽譜は、オルガン奏者の兄に取り上げらるのでした
スゴイ執念(笑)
音楽を追求するためなら、何でもしちゃう性格だったみたいだね(笑)
10代【声変わりと人間関係トラブル】
10代のバッハの人生を追ってみよう
音楽に一直線な、ガッコなバッハの一面が見れるね
凄腕オルガン奏者の兄のもとを去る
凄腕オルガン奏者の兄(クリストフ)のもとで、お世話になっていたバッハ
ただ、オルガン奏者の兄にお世話になるには、厳しい状況になっていきました
オルガン奏者の兄に子供がどんどん増えて、バッハの面倒をみることが難しくなったのです
オルガン奏者の兄:『ごめん、もう経済的にお前を面倒みることは厳しくなってきたわ』
今までありがとう(泣)
次探します
バッハはオルガン奏者の兄から飛び立つべく、次の住む場所を探し始めます
リューネブルグの学校へ
オルガン奏者の兄のもとを離れ、次の生活の拠点(きょてん)となったのが、
リューネブルグという街でした
リューネブルグがどんな街だったかしりたい、そんなときはこちらをチェック▽
バッハ15才(1700年)、成績優秀だったバッハは先生の推薦でリューネブルグの学校に入ります
リューネブルグの学校では、家賃や授業料は免除
そして、合唱団に入り、歌うことでお金をもらって生活します
声変わりと合唱団員クビになる
リューネブルグの学校に入って、わずか3カ月のとき
バッハ15才のとき、とうとうあの時がやってきます
声変わり、です
バッハは美しいボーイソプラノ歌手として、合唱団で歌うことで生活してきました
ある日、歌っているといつもの美しい声に混じって、1オクターブ下の低い声が混じっていました
あれ、今日は喉の調子が悪いだけかな?って思った
でも、 1オクターブ下の低い声が混じっていたのは、喉の調子が悪かったのではなく、声変わりが始まった瞬間でした
声変わりをした、ということは合唱団で歌い続けることができなくなり、収入がなくなることを意味していました
リューネブルグの学校からバッハは追い出されちゃうの?
バッハは合唱団はクビになったものの、リューネブルグの学校で、勉強を続けることが許されました
バッハは歌うことだけでなく、オルガンやヴァイオリンも得意
いろんな楽器を弾きこなせる人は少なかったため、バッハは追い出されずに済んだってワケです
楽器の才能に助けられて、リューネブルグの学校を追い出されずに済んだ
リューネブルグの学校を卒業し、アルンシュタットのオルガニストへ
バッハ18才(1703年)のとき、リューネブルグの学校を卒業した
バッハは大学に進学せずに、アルンシュタットのオルガニストに就職する
アルンシュタットがどんな街だったか知りたい、そんなときはこちらをチェック▽
バッハは成績優秀で、奨学金をもらって大学に行くことができた
じゃあなんで大学で勉強を続けずに、アルンシュタットのオルガニストとして就職したのか?
早く自分の実力を試してみたかった
バッハは自分の音楽の実力がどれぐらい社会の通じるのか、すぐにでも試してみたかった
そんな気持ちから進学ではなく、就職という道を選ぶ
バッハ襲われる
バッハが襲われる事件が起こる
アルンシュタット教会楽団の指導も行っていたバッハが18才のとき、
あまりの下手クソさに、教会楽団のファゴット奏者にブチ切れます
お前やる気あんのか(怒)(怒)(怒)
怒られた教会楽団のファゴット奏者は、バッハにブチ切れられたこと恨み、バッハをボコボコにしようと考えました
ある夜、バッハが仕事から帰っていると、そこにはあのファゴット奏者と数人が待ち構えていました
バッハだとわかると、ファゴット奏者達はバッハに襲いかかる
バッハも負けじと、護身用に持っていた剣で応戦
友人が喧嘩を止めに入って、やっとのことで収まりました
バッハ危機一髪(笑)
この事件のあと、バッハは呼び出され、
「生徒たちと上手くやるように」と上司から怒られるのでした・・・
なんで怒られるかわかんねけどな
悪いのは下手くそなファゴット奏者だろ
休暇をとって大オルガニストのもとへ行く
下手クソな宮廷楽団と練習するとに疲れたバッハは、休暇をとって大オルガニスト(ブクステフーデさん)の演奏を聞きにいく
もうやってらんねー
大オルガニスト (ブクステフーデさん) がいるリューベックまで370キロの道、10日かけてバッハは歩く歩く歩く
すごっ(笑)
リューベックがどんな街か知りたい、そんなときはこちらをチェック▽
大オルガニスト(ブクステフーデさん)の演奏にバッハは感動し、大きな影響を受けた
大オルガニスト(ブクステフーデさん)もバッハの才能を高く評価して、
『自分の次のオルガニストにならない?』という話もバッハにしている
ただ、バッハはこの大オルガニストの依頼を断っている
この大オルガニストの娘(30才)と結婚することが条件に入ってたためである
さすがに10才年上の人との結婚は、、、、キビシイ
大オルガニストの影響と教会からのバッシング
大オルガニスト(ブクステフーデさん) から、めちゃんこ影響を受けたバッハ
すぐに学んだことを自分の演奏に取り入れました
学んだことを活かして演奏してみたい
が、
大オルガニスト(ブクステフーデさん) から受けたバッハの演奏は勤め先である教会から大不評でした
「コラール演奏中の多くの奇妙な変奏」や「多くの耳慣れぬ音の混入」が批判され
バッハ=魂のエヴァンゲリスト 磯山雅
ちなみにこのときに「コラール演奏中の多くの奇妙な変奏」や「多くの耳慣れぬ音の混入」と批判されまくった曲の一つが《トッカータとフーガ》 です
《トッカータとフーガ》を聞いてみたい、そんなときはこちらをチェック▽
https://www.youtube.com/watch?v=0kGn3Sd5Buw&t=42s安らぎを求めて教会にくる人々にとって《トッカータとフーガ》は刺激的すぎるかもね
なんだと(怒)
まあまあ、そんな喧嘩しないで(汗)
20代【結婚とガンコなバッハ】
20代のバッハを見て行こう
アルンシュタットのオルガニストをやめる
喧嘩っ早い性格、そして教会から目をつけられた22才(1707年)のバッハはアルンシュタットのオルガニストをやめる
こんなところで仕事なんてしてられっか
ミュールハイゼンのオルガニストとして就職
アルンシュタットのオルガニストやめたバッハは、ミュールハイゼンのオルガニストに転職する
ミュールハイゼンがどんな街だったか知りたい、そんなときはこちらをチェック▽
ミュールハイゼンの教会ではオルガニストが亡くなり、後継ぎを探していたいました
アルンシュタットで人間関係が上手くいっていなかったバッハは後継ぎ探しに便乗して、ミュールハイゼンのオルガニストに転職
ミュールハイゼンではアルンシュタットでオルガニストをしていた時よりも給料が高く、いわゆる出世でした
前のオルガニスト(50才なかば)よりも給料が良く、バッハ(22才)がオルガニストとしての能力が高く評価されていたことがわかる
オルガンは誰にも負けない
一人目の妻バルバラとの結婚
ミュールハイゼンに来て4か月後、22才(1707年)、同じバッハ一族で一つ年上のバルバラと結婚する
幸せ
バッハの妻、バルバラとどうやって出会ったのだろう?
実は妻バルバラもバッハ一族
バッハ家は一族で集まって、盛大な宴会をやっていたので、バルバラとは小さいときから顔見知りだっのだと思う
そして、二人の共通点は幼いころに両親を亡くしている、という点
不幸な共通点にお互い共感しあって、惹かれ合ったんじゃないかな
教会カンタータの作曲を始める
ミュールハイゼンのオルガニスト時代、バッハは教会カンタータの作曲を始める
ちなみに教会カンタータは
『歌を中心とした曲で、キリスト教の素晴らしさをみんなにわかってもらうためにかかれた曲』、です
「聖書の言葉を牧師が説明し、聖書の物語を音楽で再現する」
教会カンタータ – Wikipedia
バッハはミュールハイゼンに住んでいたときに、バッハは《神の時こそいと良き時》BWV106 なんかを作曲した
《神の時こそいと良き時》BWV106 を聞いてみたい、そんなときはこちらをチェック▽
カンタータなんて興味なかったし、聴いたこともなかったけど、なんか心安らかになる曲
でしょでしょ
ミュールハイゼンのオルガニストを1年でやめる
バッハ 23才(1708年)、1年足らずでバッハはミュールハイゼンのオルガニストをやめる
一番の理由は、『理想の音楽ができない』から
ミュールハイゼンでは楽団がしょぼくて、話にならない
バッハはミュールハイゼンのオルガニストを辞めるために、勤め先に出した辞表と届けにはこんなことが書いてある
自分が「究極目的」としている「整った教会音楽」を上演したいと思っても、「悶着を起こさずにことが運んだためしはなく」、しかも「先ざき状況が変わるかもしれない」「といったきざしもほとんど見られない」
バッハ「音楽の父」の素顔と生涯 加藤浩子著
「悶着(もんちゃく)を起こさずにことが運んだためしはなく」って書いてあるってことは、人間関係でまたトラブルがあったのかな?(笑)
自分の理想の音楽がしたい、そんな理由でミュールハイゼンのオルガニストをやめているけど、ガンコなバッハさんなら人間関係でトラブルがなかったわけがないよね(笑)
なんだと(怒)(怒)(怒)
冗談、じょうだん・・(汗
ワイマールの宮廷に転職
ミュールハイゼンのオルガニストを辞めた23才(1708年)のバッハ、次はワイマールという街の宮廷オルガニストとして就職した
ワイマールがどんな街だったか知りたい、そんなときはこちらをチェック▽
バッハはワイマールの侯爵(こうしゃく)にスカウトされ、ワイマールの宮廷オルガニストに就職する
収入は前の職場であるミュールハイゼンのオルガニストから、爆上がり
ミュールハイゼンの給料85フローリンから、ワイマールの給料150フローリンへ跳ね上がった(←フローリンは当時のお金の単位です)
転職を繰り替すためびに、収入アップしていくね
オルガニストとして超一流なワタシなら当然の結果
音楽のためなら上司すら無視、ガンコなバッハ
ワイマールでは音楽のためなら上司すら無視する、ガンコなバッハの一面を知ることができます
ワイマールでのバッハには、同時に二人の上司(ワイマール宮殿の侯爵)がいました
このワイマールの上司二人の仲がそりゃもう、めちゃんこ悪い
片方の上司が、「もう片方の上司のとこに行くな」、なーんて言ったことをバッハに言ったみたいです
ただ、バッハは「もう片方の上司のとこに行くな」という上司からの指示を無視しました
二人の上司で音楽の趣味が違(ちが)っていたので、どちらの上司とも関わることでいろんな音楽を知ることができる
音楽一筋のガンコなバッハは、いろんな音楽が学べるなら、と両方の上司を行ったり来たりしていました
仲の悪い上司に挟まれて大変ね
いろんな音楽を学べるなら、上司に嫌われようがどうでもいい
ヴィヴァルディに影響されるバッハ《調和の霊感》を聞く
バッハはワイマール宮殿で働いていたときにイタリア音楽を聴いた
例えばイタリア人のヴィヴァルディが作った《調和の霊感》をバッハは聞きました
《調和の霊感》はヴァイオリンを弾くなら誰しもが弾く、通称「a-moll(アーモル)」といわれる曲が入っています
イタリア人のヴィヴァルディが作曲した《調和の霊感》を聞いてみたい、そんなときはこちらをチェック▽
ヴィヴァルディからインスピレーションを受けたバッハは《調和の霊感》を編曲した曲を書いている
バッハが《調和の霊感》を編曲して書いたBWV593を聞いてい見たい、そんなときはこちらをチェック▽
ドイツから離れたことがなかったから、ワイマールでイタリア音楽に触れられたことはとても大きかった
30代【幸せの時間そして絶望へ】
30代のバッハを見て行こう
この時期に《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータ》など、名曲が生まれているよ
バッハ牢屋へそしてワイマールを去る
バッハ32才(1717年)のとき、ワイマールの上司(ワイマールの公爵)をブチ切れさせます
バッハがワイマールの上司に無断で、転職活動を進めていたのです
そして次の職場と契約し、あとはワイマールを去るだけ、そんな状況でした
バッハが無断で転職すると知った上司はブチ切れ、「なに勝手なことをしとんじゃ」って感じでした
*ワイマールの上司は、規律や道徳にめちゃくちゃキビシイ真面目な人
ブチ切れたワイマールの上司はバッハを牢屋(ろうや)に入れます
一カ月監禁されたあと、バッハは逃げるようにワイマールを去った
もうワイマールの地を踏むことはない
ケーテン宮廷楽長に就任【幸せの絶頂】
バッハは32歳(1717年)にケーテンの宮廷楽長になりました
ケーテンがどんな街か知りたい、そんなときはこちらをチェック▽
いわゆる出世です
ケーテンの宮廷楽長になりたてのころは、バッハはとっても幸せでした
ケーテンの上司であるレオポルドが音楽大好きっ子だったので、上司のレオポルドはバッハに音楽に没頭(ぼっとう)できる環境を与えました
バッハもこんな言葉を残しています
このケーテンの地で私は恵み深く、しかも音楽を愛し、かつ音楽に精通しておられる君主を得まして、このかたのもとでわが生涯を終えるつもりでありました
バッハ 「音楽の父」の素顔と生涯 加藤浩子著
ケーテンでの生活は最高だったね
妻バルバラの死
バッハ35才(1720年)のとき、バッハにツライ運命が訪れます
妻のバルバラが突然、この世を去ったのです
バッハが1カ月間の出張から帰ってくると、妻バルバラのいない家庭になっていました
何が起こったか理解できなかった・・・
《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータ》の作曲
バッハ35歳(1720年)、ケーテンの宮廷学長だったとき、《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータ》が完成しています
どの曲をとっても美しい曲
でも、この《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータ》の中でも最高峰なのが、パルティータ2番の《シャコンヌ》
《シャコンヌ》を聞いてみたい、そんなときはこちらをチェック▽
《シャコンヌ》はなんで、こんなにも美しいのか?
《シャコンヌ》は急死した妻、バルバラに向けて書かれた曲だから、だと思う
バッハの一人目の妻、バルバラはバッハ35歳の時に4人の子供を残して天に旅立っている
愛するバルバラを思い、安らかに眠って欲しい、そんな気持ちで書かれたからこそ、《シャコンヌ》はこれほどまでに美しい曲、なんだと思います
バルバラのことだけを思って、魂をこめて《シャコンヌ》を書いた
《無伴奏チェロ組曲》の作曲
バッハが宮廷学長だったとき、もう一つの《無伴奏》曲を完成させます
《無伴奏チェロ組曲》です
バッハが32才~38才のとき(1717~1723年)の作品
《無伴奏チェロ組曲》を聞いてみたい、そんなときはこちらをチェック▽
《無伴奏チェロ》はチェロの歴史を変えた曲
ずっと脇役だったチェロを、花形にした曲です
バッハの時代まで、チェロはメロディーの「伴奏」がメインでした
ズン、ズン、ズンとリズムを刻むのがメインでした
《無伴奏チェロ組曲》によって、チェロの良さが花開き、後世に大きな影響を与えることになります
チェロの素晴らしさを広めてやったぜ(ドヤ
バッハ再婚
妻バルバラの死から1年
バッハはマグダレーナという女性と再婚します
マグダレーナは、バッハが指揮していた宮廷楽団のソプラノ歌手
ちなみに、マグダレーナは16才年下です
うらやましい
アホ(笑)
音楽嫌いの妃(きさき)の登場【そして不幸へ】
音楽家、そして結婚と幸せだったバッハ36歳(1721年)
音楽嫌いの妃(きさき)の登場によってバッハの幸せは吹っ飛びます
上司であるレオポルドが、音楽嫌いの女と結婚したのです
上司であるレオポルドは、この音楽嫌いの妃(きさき)にゾッコン
レオポルドは音楽嫌いの妃(きさき)に言われるがままに、音楽文化を縮小していきました
給料まで減られた
ブランデンブルク協奏曲
上司のレオポルドが音楽嫌いのため、音楽文化が縮小していったケーテンの宮殿
給料も減らされたバッハはケーテンの宮廷楽長として働くことに不安を持ちます
このままケーテン宮殿で働き続けても良いのだろうか・・
次の職を探すために作曲されたのが《ブランデンブルグ協奏曲》です
《ブランデンブルグ協奏曲》がどんな曲か知りたい、そんなときはこちらをチェック▽
《ブランデンブルグ協奏曲》で他の国の王様にアピールし、雇ってもらうために作曲されたようです
バッハ、ケーテンを去る
音楽嫌いな妃(きさき)によって、縮小されていく宮廷楽団・・・
将来が不安・・
そう感じたバッハ38才(1723年)、とうとうケーテンを去る
上司のレオポルドは友達のように接してくれた、
でも、今のケーテンでは自分の音楽ができない
バッハがケーテン宮殿を去った理由は、音楽嫌いの妃(きさき)の影響、だけではありませんでした
子供たちにレベルの高い教育を受けさせたい、そんな気持ちもケーテンを去ることを後押しする
ぶっちゃけ、ケーテンの教育はクソ
次の仕事場に選んだのは、ドイツの名門大学があるライプツィヒという街でした
ライプツィヒのカントル(音楽監督)に転職
38才(1723年)のバッハはケーテンからライプツィヒという街に移る
ライプツィヒがどんな街だったか知りたい、そんなときはこちらをチェック▽
ライプツィヒではトーマス教会のカントルという役職についた
カントルは簡単にいうと、「学校の先生」+「音楽監督」みたいな職業です
教会付属の生徒指導、そして教会の音楽監督、超多忙な仕事でした
ライプツィヒでバッハは死ぬほど働きます
毎日15時間とか仕事したらしい
一日8時間労働だとすると、、毎日残業が7時間、土日働いていたとすると・・・
月の残業時間が200時間越え(笑)
過労死ラインが80時間だから、いつぶっ倒れてもいいぐらい(笑)
バッハ家は代々体が頑丈だから大丈夫
《主よ人の望みの喜びよ》を作曲
バッハがトーマス教会のカントル(音楽監督)として、超多忙なときに書かれた曲の一つが有名な《主よ人の望みのの喜びよ》です
《主よ人の望みのの喜びよ》 はカントルに就任して1年目の作品でした
バッハが作曲した《主よ人の望みのの喜びよ》 を聞いてみたい、そんなときはこちらをチェック▽
よくクソ忙しいときに、こんな名曲を書けるな
切羽詰まっていたからこそ、ワタシの音楽家としての能力がさらにレベルアップした
40代【上司とのバトル】
40代のバッハを見て行こう
上司との激しいバトルを繰り返した時代
コレギウム・ムジクムの指揮者になる
バッハ44才(1729年)の時、コレギウム・ムジクムの指揮者になる
コレギウム・ムジクムってなに
コレギウム・ムジクムは簡単にいうと、
『お金を払えば誰でも聞けるコンサート』のこと
現代みたいなコンサートのことね
当時はお金を払うだけで、誰でも聞けるコンサートって結構稀(マレ)だった
貴族しか聞けないとか、礼拝や冠婚葬祭のときしか音楽を聴けないというのがほとんど・・・
お金を払うだけで聞ける、コレギウム・ムジクムはとっても貴重な場所でした
そして、バッハにとってもコレギウム・ムジクムで指揮をすることには、とってもメリットがありました
今までは教会用の音楽の作曲がメインでしたが、 コレギウム・ムジクムでは教会音楽以外の曲を作曲し演奏することができる
バッハはコレギウム・ムジクムを通じて、教会音楽以外の曲を作曲する
コレギウム・ムジクムのために作曲された曲の中で今でも演奏されている曲がある
コレギウム・ムジクムは仕事場である教会から離れられる憩(いこ)いの場所
そして、自由に自分の音楽を表現できる場所
《2つのヴァイオリンのための協奏曲》の作曲
コレギウム・ムジクム時代に、ヴァイオリンを弾くなら誰もが弾く、あの曲を作曲する(バッハ45才ころ)
《2つのヴァイオリンのための協奏曲》、です
バッハが作曲した《2つのヴァイオリンのための協奏曲》が聞きたい、そんなときはこちらをチェック▽
ワタシも《2つのヴァイオリンのための協奏曲》弾いたー
良い曲だよねー
《G線上のアリア》の作曲
お金を払えば誰でも聞けるコンサート、コレギウム・ムジクムで演奏された曲をもう一つ
《G戦場のアリア》もコレギウム・ムジクムのために作曲された
教会と揉める、またもや人間関係トラブル
ライプツィヒでカントルとして働いていたバッハ
人間関係は良好だったのか?
ハッキリ言うと、超最悪です
ライプツィヒの上司達は好かれていなかったバッハは、給料を減らされたりしてます
なんでバッハはライプツィヒの上司と揉めたの?
バッハは音楽一直線
ライプツィヒの上司達は音楽よりも教育、教養が重要
そんな違いがあって並行線を辿ります
バッハの役職であるカントルという仕事は「学校の先生」+「音楽監督」みたいな仕事です
バッハは「音楽監督」の仕事を一番とし、
ライプツィヒの上司達は「学校の先生」として優秀であることを一番と考えていました
そんな考え方の違いもあって、バッハとライプツィヒの上司達でめちゃんこ揉めます
音楽が一番で何が悪い
音楽が優秀な子たちは、勉強も優秀だかね
最終的にはバッハの給料が減らされる、そんな事態になりました
ライプツィヒで自分の音楽ができないなら、転職しよう
そう思って友人に手紙を書いたこともあった
人間関係トラブルを避けるために宮廷作曲家になる
上司と人間関係で揉めまくったバッハ
バッハは、なんとか上司達に対抗しようとします
クソ上司達を黙らせたい、どうすれば・・
あ、もっと偉い人にみとめられれば、クソ上司達を黙らせることができる
バッハはうるさい上司を黙らせるために、ある作戦にでます
バッハは宮廷作曲家を目指すことにしました
宮廷作曲家になれば超偉い人がバックにつくので、うるさい上司達も口出しできないだろう、バッハはそう考えて宮廷作曲家を目指します
バッハが51才(1736年)バッハは宮廷作曲家になります
バッハが宮廷作曲家になると、うるさいライプツィヒの上司達はバッハに口出ししなくなる
とりあえずはめんどくさい上司達を黙らせることができた
バッハが宮廷作曲家になることで、バッハとライプツィヒの上司達の争いは一時休戦状態になります
50代【バッハの音楽は古い】
50代のバッハを見て行こう
バッハの音楽は古い、そんなことを言われて、バッハは一人の殻に閉じこもっていく・・・
バッハの音楽への批判
51才(1736年)のバッハにとって衝撃が走る
『バッハの音楽は時代遅れだ』そう批判される
そ、そんなわけあるか(怒)(怒)(怒)
バッハはすぐに『バッハの音楽は時代遅れだ』という批判に対して抗議する
ワ、ワタシの音楽は素晴らしい
バッハにとってショックだったのは、息子からも『父ちゃんの音楽は時代遅れだよ』といわれたこと
バッハは徐々に自分の殻に閉じこもっていく
実はバッハが50才ころ、社会はバロック音楽から、モーツアルトやベートーベンが活躍した古典派に移り行く時代
時代遅れと言われるのも、時代の流れ的にしょうがなかったのかもしれないね
《ゴルドベルグ変奏曲》の出版
自分の殻に閉じこもりがちになったバッハ56才(1741年)のとき
《ゴルドベルグ変奏曲》が出版される
《ゴルドベルグ変奏曲》を聞いてみたい、そんなときはこちらをチェック▽
《ゴルドベルグ変奏曲》は一般向けではなく、マニア向けの曲として作曲されました
バッハにとって《ゴルドベルグ変奏曲》は変奏曲の集大成の曲
変奏曲をただただ極めたい、そんな気持ちで書かれた曲
《ゴルドベルグ変奏曲》好きだけど、音楽が古いと批判されて、自分の殻に閉じこもりだったバッハが書いた作品だったんだね
確かに《ゴルドベルグ変奏曲》からはどこか内向的な、孤独な雰囲気が漂っているね
60代【ヤブ医者による不幸】
60代のバッハを見て行こう
1日15時間働いても元気なバッハも、とうとう天に旅立つ時がくる
ヤブ医者による目の手術
64才(1749年)のバッハはほとんど目が見えなくなっていた
糖尿病による視力の低下でした
バッハは視力を取り戻すために、目の手術を受ける
目の手術が最後の望み・・
まだ作曲をしたい、音楽がしたい・・
この目の手術が、大きな間違いでした
目の手術を行った人は、ダメ医者、ヤブ医者だったのです
手術が成功するはずもなく、バッハは完全に目が見えなくなりました
手術が失敗しても治療は続きます
目の手術をしたクソ医者は「この薬を飲み続けていれば、回復していく」 とテキトーなことを言ってバッハに薬を飲ませ続けます
この薬も体に悪いものでした
一日、15時間働いてもピンピンしていたバッハ、人生の火が消えようとしてました
ここまでか・・
目の手術さえしていなければ・・
もっと生きて音楽を追求したかった・・・
バッハ人生を終える
バッハ65才(1750年7月28日)バッハはこの世を去ります
バッハの死後、バッハ自身そしてバッハの音楽は社会から忘れられていく
バッハの残した音楽はどうなってしまうの・・・?
忘れられたバッハ、その後
バッハの音楽はこのまま忘れられていしまうのか
結論を言うと、メンデルスゾーンという作曲家が忘れられていたバッハの音楽の素晴らしさを広めます
*メンデルスゾーンはヴァイオリン協奏曲や結婚行進曲などを作曲した人です
*メンデルスゾーンの作曲したヴァイオリン協奏曲と結婚行進曲が聞きたい、そんなときはこちらをチェック▽
メンデルスゾーンは、バッハの孫弟子に音楽を教わりました
小さいことからバッハの素晴らしさを体に染み込ませていました
『バッハの音楽はなんて素晴らしいんだ』、メンデルスゾーンはそう思っていました
でも、社会はバッハのことを忘れ、バッハがカントル(音楽監督)として数十年活動したライプツィヒの人ですら、
『バッハって誰?そんな人いたんだ』、そんな状態
メンデルスゾーンはバッハを忘れた社会にブチ切れます
『あんな素晴らしい音楽を作曲したバッハを知らない!?信じれない、本当に信じられない!アホちゃうの?』
メンデルスゾーンは、バッハの音楽の素晴らしさを広めるために奮闘(ふんとう)する
そして、メンデルスゾーンはやっとこさで、バッハの作曲した《マタイ受難曲》を演奏する
《マタイ受難曲》を聞いてみたい、そんなときはこちらをチェック▽
メンデルスゾーンがバッハの作曲した《マタイ受難曲》を再演したのが1829年、バッハがこの世を去って80年後の出来事でした
バッハの音楽が今、多くの人の心を救っているのはメンデルスゾーンのおかげなんだね
そうそう、メンデルスゾーンには本当に感謝
(ワタシの曲を広めてくれてありがとう)
まとめ
この記事ではバッハがどんな性格だったのか、そしてどんな人生を送ってきたのかついてお話してきました
この記事をもう一度振り返ってみよう
- バッハは音楽一筋の職人さん気質、自分が正しいと思ったことは絶対曲げない
- それゆえ、人間関係のトラブルは絶えなかった
- 音楽の才能は超一流だったので、転職を繰り返すごとに収入はどんどん上がっていった
- 生前はオルガニストとして高く評価されていて、作曲家としての評価は低かった
- バッハの死後、バッハの音楽は忘れられてしまう・・・
- バッハが亡くなって80年後にメンデルスゾーンがバッハの素晴らしさを広める
バッハの音楽って神々しいから、もっと高尚(こうしょう)な人なんかと思ってたけど、大工さんとかにいそうな職人さんみたいな人だったんだね
そうみたい、バッハは『自分の音楽にプライドをもって音楽に命をかけて生きた』人
だからこそ、人間関係トラブルも多かった
人間関係を良くするよりも音楽が大切・・・
音楽に本気だったからこそ、泣けるような音楽をバッハは作ることができたんだね
参考文献
今回の記事の執筆にあたり、以下の文献を参考にさせていただいております
めっしーのヴァイオリン教室【大人から始めた初心者限定のヴァイオリン教室】
この記事の著者、めっしーのヴァイオリン教室の特徴
- 大人からヴァイオリンを始めた、初心者限定のヴァイオリン教室
- 18才からヴァイオリン始めた、ぼくめっしーがレッスン
- アマチュアオーケストラでトップ弾いたり、室内楽弾いたり、今はレッスンで超難曲のパガニーニのカプリースさらってる
- 大人から始めたんだけど、プロを輩出する門下で学ぶ
- プロを輩出する教室で学んだことをベースにレッスン
- あなたと同じくヴァイオリンを始めたからこそ、伝えられることがある
- 大人から始めた難しさ、苦労、とってもわかるし、ちょっと先を行ってるからこそ、どうやって壁を乗り越えていったかお話できる
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- 朝レッスン 6:00~(おそらくここの教室だけ)
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